▼「永遠に子である事。」 ドラマの話はゆっくりと確実に進でいる。 現実と過去が交互に描かれ、そこに際だった謎もなく、淡々としている感じがする。 ストーリー的には、誰が殺人を犯したとかが伏せられていたりして、そこらへんは謎となっているんだけども、それが全くサラリと、いやそれが付随する現実(もちろんドラマの架空な話だから現実味と言うべきかもしれないけど、ここでいうのは、外界への結果としてではなく過程まで含めたボリュームある現実として。)が重点的に描かれ過ぎていてサラリとした印象を受けるだけのようで、そのせいで上記のような感じを受けたのだろうと思う。 このネチネチした現実をあえて描くことで、安易に解決策を見つけてしまう薄っぺらい作品と一線を画している。 主人公3人を含め様々な人間が自分勝手に苦しんでいる様に、同情というか同調もするが、もう片方で怒りや嫌悪も感じるようにもなった(特に話上焦点があてられた聡志になんだろうけど、やはり全員にも少なからず当てはまるような気がする)。 ドラマの中である刑事が言った「俺はイヤな気がした。青臭いガキが、親の本当の苦労も知らないで、頭でっかちに言いたい放題だ。」「人間がやる事じゃない。」という言葉に、同様のそれが込められている。 自分のアイデンティテーに埋没していき、周りが見えなくなっていく永遠にガキのまんまの困った奴だったと、きっと遠い未来に過去の自分を評価するのだろう(決して否定ではない、自分を否定する事は生産的でないような気がする。多次元な評価を下すべきなんだろうと思う。)。 あと、この作品に描かれている諸親を見て、「リップスティック」の真白ちゃんの葬式での三上博演じる有明 悠のセリフを思い出した。(たしか「子供生んだんなら、女やめて母親になれよ!」だった。) どうして親を選ぶ権利を生まれてくる生命は持っていないのだろうか?。だからこそ、その権利を代理する僕らに義務が課せられているんだろうと思う。 こんな状況の中で、話としての終わり(ドラマ最終回としてのクライマックス)を見せてくれたなら、より感動的で、制作者(原作者や監督、そして俳優さん達)の実力に拍手喝采であろう。期待っ!。
永遠の仔 レビュー
「永遠の仔」
●久坂優希(中谷美紀)
●長瀬笙一郎(渡部篤郎)
●有沢梁平(椎名桔平)
●早川奈緒子(石田ゆり子)
●久坂聡志[優希の弟]
●久坂志穂[優希の母親]
●久坂雄作[優希の父親]
●長瀬まり子[長瀬の母親]
▼「事件にならない所により救いがあるのかもしれない」
このドラマの核になっているだろう、言葉で書いてしまうとあっさりしすぎている・・・トラウマ。
人間は、名前を与えることでその抽象的な事柄を支配したと言われるが、このトラウマという事柄は、まだまだ分かったようで分からない。
特にこのドラマが扱うだろうトラウマの種類は、心の成長期に刻まれただけあって、もしかすると一生どうしようもない心の基礎の穴なのかも。
冒頭シーンで、思春期時代の彼らは「救い」やら「しなくてはならない」とかひどく強迫観念にとらわれ、殺人まで犯す光景は、ひどく悲しい。私が親にこんな事をされるのは、きっと私が悪いからと感じ、その事に耐えられなくなって抽象的な何かにすがろうとする心意気は、今の宗教のなんたらに似ているような気がする。
この作品は、きちんと原作があって、ミステリーと分類されている事をみると、殺人などの事件が起きるらしいが、本当に考えるべき怖さは、そんな事件という外界の結果よりは、たぶん優希を取り巻く久坂家のベールにつつまれたようなじっとりとした関係の繰り返しなんだと思う。そんな息苦しい繰り返しの中で、自分をしっかり確立し直すのはひどく辛いんだろうなぁと思う。(その立ち直りが、成長期のトラウマにしても、後で述べる背徳のトラウマから、どちらからとしても・・。)
あと作品のストーリーについて・・・、男ふたりは、優希に対して唯一の救いをもとめているようだけど、優希はどこに何を求めているかがはっきりしない。
ただがむしやらに働くのみ。この同じトラウマを抱える男ふたりと女ひとりの違いはどこからくるのかと考えてみた。
もしかすると、優希の父親を殺したのは、優希自身なのかも。
長瀬が恨みながらも親を捨てれない事や、有沢が外の原因(性犯罪者や被性犯罪者)にばかり気がいっている事と、優希が抱え悩んでいる事とは、少し違うような気がしたから。
優希がその殺人の後に抱える事をしっかり認識して背徳の殺人を犯してしまったのなら、今の事もなんとなく納得してしまうんですけど・・・。
自分を律して心の穴を埋めてもなお続く、違う意味での救いようもない苦しみに人は耐えれるのかな?。
(この事に限らず罪を犯し、その事を一生背負い続ける人にどうして、ぼくらは悟りみたいなものをみてしまうのかな?)
▼「永遠に子である事。」 ドラマの話はゆっくりと確実に進でいる。 現実と過去が交互に描かれ、そこに際だった謎もなく、淡々としている感じがする。 ストーリー的には、誰が殺人を犯したとかが伏せられていたりして、そこらへんは謎となっているんだけども、それが全くサラリと、いやそれが付随する現実(もちろんドラマの架空な話だから現実味と言うべきかもしれないけど、ここでいうのは、外界への結果としてではなく過程まで含めたボリュームある現実として。)が重点的に描かれ過ぎていてサラリとした印象を受けるだけのようで、そのせいで上記のような感じを受けたのだろうと思う。 このネチネチした現実をあえて描くことで、安易に解決策を見つけてしまう薄っぺらい作品と一線を画している。 主人公3人を含め様々な人間が自分勝手に苦しんでいる様に、同情というか同調もするが、もう片方で怒りや嫌悪も感じるようにもなった(特に話上焦点があてられた聡志になんだろうけど、やはり全員にも少なからず当てはまるような気がする)。 ドラマの中である刑事が言った「俺はイヤな気がした。青臭いガキが、親の本当の苦労も知らないで、頭でっかちに言いたい放題だ。」「人間がやる事じゃない。」という言葉に、同様のそれが込められている。 自分のアイデンティテーに埋没していき、周りが見えなくなっていく永遠にガキのまんまの困った奴だったと、きっと遠い未来に過去の自分を評価するのだろう(決して否定ではない、自分を否定する事は生産的でないような気がする。多次元な評価を下すべきなんだろうと思う。)。 あと、この作品に描かれている諸親を見て、「リップスティック」の真白ちゃんの葬式での三上博演じる有明 悠のセリフを思い出した。(たしか「子供生んだんなら、女やめて母親になれよ!」だった。) どうして親を選ぶ権利を生まれてくる生命は持っていないのだろうか?。だからこそ、その権利を代理する僕らに義務が課せられているんだろうと思う。 こんな状況の中で、話としての終わり(ドラマ最終回としてのクライマックス)を見せてくれたなら、より感動的で、制作者(原作者や監督、そして俳優さん達)の実力に拍手喝采であろう。期待っ!。
▼「永遠に子である事。」 ドラマの話はゆっくりと確実に進でいる。 現実と過去が交互に描かれ、そこに際だった謎もなく、淡々としている感じがする。 ストーリー的には、誰が殺人を犯したとかが伏せられていたりして、そこらへんは謎となっているんだけども、それが全くサラリと、いやそれが付随する現実(もちろんドラマの架空な話だから現実味と言うべきかもしれないけど、ここでいうのは、外界への結果としてではなく過程まで含めたボリュームある現実として。)が重点的に描かれ過ぎていてサラリとした印象を受けるだけのようで、そのせいで上記のような感じを受けたのだろうと思う。 このネチネチした現実をあえて描くことで、安易に解決策を見つけてしまう薄っぺらい作品と一線を画している。 主人公3人を含め様々な人間が自分勝手に苦しんでいる様に、同情というか同調もするが、もう片方で怒りや嫌悪も感じるようにもなった(特に話上焦点があてられた聡志になんだろうけど、やはり全員にも少なからず当てはまるような気がする)。 ドラマの中である刑事が言った「俺はイヤな気がした。青臭いガキが、親の本当の苦労も知らないで、頭でっかちに言いたい放題だ。」「人間がやる事じゃない。」という言葉に、同様のそれが込められている。 自分のアイデンティテーに埋没していき、周りが見えなくなっていく永遠にガキのまんまの困った奴だったと、きっと遠い未来に過去の自分を評価するのだろう(決して否定ではない、自分を否定する事は生産的でないような気がする。多次元な評価を下すべきなんだろうと思う。)。 あと、この作品に描かれている諸親を見て、「リップスティック」の真白ちゃんの葬式での三上博演じる有明 悠のセリフを思い出した。(たしか「子供生んだんなら、女やめて母親になれよ!」だった。) どうして親を選ぶ権利を生まれてくる生命は持っていないのだろうか?。だからこそ、その権利を代理する僕らに義務が課せられているんだろうと思う。 こんな状況の中で、話としての終わり(ドラマ最終回としてのクライマックス)を見せてくれたなら、より感動的で、制作者(原作者や監督、そして俳優さん達)の実力に拍手喝采であろう。期待っ!。